童謡・唱歌『早春賦』
1913年(大正2年)
作詞:吉丸一昌
作曲:中田章
「早春賦(そうしゅんふ)」は、1913年(大正2年)に発表された吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌です。題名の「賦(ふ)」とは、漢詩を歌うこと、もしくは作ることを指しており、「早春に賦す」がもともとの意味になります。2006年から2007年にかけて文化庁と日本PTA全国協議会が選定した「日本の歌百選」に選ばれています。少々、難しい言葉が並んでいるので以下に簡単な訳文にしました。
「春とは名ばかりで、風の冷たい日が続いている。そろそろ谷の鶯が鳴きはじめる頃だが、まだ早いとみえて声を立てることもない。氷が解けて、水が流れはじめ、川の葦は芽を吹いて先の方を堅く尖らせている。さあ、これはいよいよ春が来たぞ、と思っていたら何のことはない、今日も昨日も空から雪が落ちてくる。春と聞かされなければ、知らずに過ごしていられるものを、春の気配を感じられるようになると、どうしても本格的な春の到来が待ち遠しくて仕方ない。そんな思いをどうしてやり過ごそうかと考えあぐねて過ごす今日この頃だ。」
2番の「角ぐむ」は、葦、荻、薄、真菰などの芽が角のように出始めること。「あやにく」は「あいにく」と同じ意です。歌詞の「春は名のみの」とは、立春(りっしゅん)を過ぎて暦の上での「春」になったことを指します。立春は二十四節気の1つで、冬至と春分の中間にあたり、この日から立夏の前日までが暦の上での「春」となります。2月4日頃で、九州など暖かい地方では梅が咲き始めます。
作曲を担当した中田章は、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などを作曲した中田喜直の父親です。ある人から「あなたは夏・秋・冬の定番曲は作っているのに、なぜ春の曲を作らないのですか」と尋ねられた中田は、「春の定番曲には『早春賦』があり、父を尊敬している私としては、あえて作ろうとは思いません」と、答えたそうです。
作詞の吉丸一昌は、明治6年(1873)に大分県臼杵(うすき)で生まれ、東京帝国大学を卒業後に東京音楽学校(現在の東京芸大音楽学部)の教授になりました。吉丸は、43歳の若さでこの世を去っていますが、日本の唱歌・童謡に多大な影響を与えています。
風景のモデルになったのは長野県の安曇野?
明治末に安曇野に訪れた吉丸は、雪解けの風景に感動し、この歌を作ったと伝えられていますが、彼が安曇野へ訪れたとする文献がなく、疑問視の向きもあります。安曇野市は、長野県中央部に広がる松本盆地の北西部、梓川、烏川、黒沢川、中房川などによる複合扇状地上に位置し、全体的に清流に恵まれた地域です。安曇野が指し示す範囲としては明確に画定された線引きは無く、一般に、当市のほか池田町、松川村、大町市南部(旧常盤村、旧社村)、松本市の梓川地区(旧梓川村)なども含まれるとするのが有力です。
ちなみに大町市には、『劇団四季 浅利慶太記念館』があり、半世紀を超える劇団四季のあゆみを様々な舞台模型、写真、台本、大道具・小道具、衣装、関連資料などによってわかりやすく紹介しています。同じ敷地内には実際に全国の劇場で使用される大道具を収めた倉庫群があり、劇団在籍時には、私自身も新宿発の『あずさ2号』に乗って何度か倉庫整理や搬入・搬出のために来訪した経験があります。
早春賦の歌碑
早春賦の歌碑(長野県安曇野市)
穂高町(現在安曇野市穂高)にある大王わさび農場の近くを流れる穂高川の土手には、『早春賦』の歌碑が建っており、毎年4月に「早春賦音楽祭」が開かれています。大町実科高等女学校(長野県大町北高等学校の前身)では愛唱歌として歌われていました。安曇野の住人たちは、この歌が安曇野を歌ったものであることに喜びと誇りを感じています。
また、大分県臼杵市には、吉丸一昌記念館「早春賦の館」が建っています。1873年(明治6)臼杵で生まれた吉丸一昌の生誕120年を記念して、夫人の実家に開館された記念館です。彼が残した楽譜や遺品など、ゆかりの品の展示、また吉丸一昌作詞の歌が収録されたCDも販売されています。
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回想法
- 安曇野を旅行したことがありますか?
- ウグイスの鳴き声を知っていますか? どんな鳴き声ですか?
- 鳥の名前を5つ答えてください。
- 「葦(あし)」はどんな植物か知っていますか? 「角ぐむ」は、どんな意味ですか?
- 春に咲く花の名前を5つ答えてください。(なのはな、すみれ、ちゅーりっぷ、なでしこ、もも、など)
- 春の訪れを感じるのはどんな時ですか?