目次
1.なぜ、予防が大事なのか
2.認知症の非薬物療法
3.地方自治体の取り組み
4.まとめ
1.なぜ、予防が大事なのか
ドイツの精神医学者、アロイス・アルツハイマーによって世界で初めてアルツハイマー病が報告されてから一世紀以上が経ちます。その後、さまざまな研究が続き、アルツハイマー病患者の脳内で減っている神経伝達物質「アセチルコリン」を補うエーザイの「アリセプト」が米国食品医薬品局(以下、FDA)に承認され、アメリカでは97年(日本では99年)に発売されています。日本ではこの他にレミニールとイクセロン・リバスタッチ、メマリーといった治療薬が承認されていますが、あくまでも症状の緩和を目的とした対症療法薬です。エーザイが創薬し2021年にFDAが承認したアデュカヌマブについては大きなニュースとして耳にされた方も多いと思います。病気の進行抑制に効果があるとされる抗体医薬として大きな期待が寄せられていますが、薬剤費が高価であることに加えFDAがアデュカヌマブの薬剤の有効性が十分把握できる前に承認する「迅速承認」であったことで治療の効果については専門家のあいだでも賛否が大きく分かれています。日本では既に厚生労働省が新薬承認の審査に入っていますが一般的に使用が開始されるのにはまだ時間がかかりそうです。
一方で、認知症予防に効果があるとされる非薬物療法に関しては、この10数年の間、科学的予防に関する知見が増え、認知症の危険因子、保護因子について数多くの調査研究の結果が報告されてきました。アルツハイマー病発症の原因は解明されていませんが、脳内の変化として、異常なたんぱく質であるアミロイドβ(以下、Aβ)とタウたんぱく質(以下、タウ)の蓄積が上げられています。発症のおよそ20年前から脳にAβがたまり始め、10年前ごろからタウが蓄積して神経細胞が減り、5年前ごろに記憶に関わる海馬が萎縮し、記憶力の衰えがみられるようになります。つまり、80歳に認知症を発症する人は、既に60歳の頃から目に見えない形で脳の病変が進行していたということになります。今こうしている間にも、それと気づかず認知症発症へ向かっているかもしれないのです。したがって、私たちができる最善の行為は、画期的な認知症治療薬の登場を待ち望んで何もしないでいることではなく、認知症を発症させない、あるいは遅らせることが期待される認知症予防に関する非薬物療法を実践していくことにあると考えます。
2.認知症の非薬物療
認知症予防として注目されている『デュアルタスク(Dual-Task)』は、高齢者施設やデイサービスなどのレクリエーションに取り入れられています。デュアルタスクは二重課題とも呼ばれ、人と話しながら歩いたり、声を出して計算しながら歩くなどの2つの事を同時に行う「ながら動作」を言います。認知症になると脳の血流低下や血流不足により脳の機能低下が起こります。脳の司令塔とも言われる前頭葉の機能が低下すると、状況判断力の低下が顕著になるります。 デュアルタスクを行うと、脳の血流量を上げ、特に前頭葉が活性化されると考えられています。虚弱高齢者を対象にデュアルタスクとバランストレーニングを行った研究では、歩行速度が優位に向上し、さらに転倒発生状況が顕著に減少していたという効果も報告されています。
芸術療法は、「粘土遊び」「砂遊び」といった子どもの成長・発達をうながす意味や役割ををもつ表現活動を利用した心理療法です。表現活動の内容によって『絵画療法』『音楽療法』『心理劇』『箱庭療法』『舞踏療法』『詩歌療法』『コラージュ療法』『造形療法』などに細分化されます。統合失調症やうつ病などの精神疾患に用いられてきた療法で、箱庭療法など日本独自の発展を遂げてきましたが、認知症分野での報告はまだ多くありません。無動の人の活動量が増えたり、無表情の人の感情表出が認められたりするなどの効果が即時的に観察されることから芸術療法の効果を実感することができます。音楽療法では参加した認知症高齢者が参加した後に周辺症状の軽減が見られた等の報告が存在します。
回想法は、1963 年にアメリカの精神科医 Robert. N. Butler によって提唱された心理療法です。高齢者の思い出に対して専門家が共感的に受け入れる姿勢をもって意図的に働きかけることによって人生に対する再評価や自己の強化を促し心理的な安定や記憶力の改善をはかることを目的としています。介護施老人保健施設において映像を用いて回想法を実施し、その前後において軽度・中等度の認知症において改訂長谷川式スケール(HDS-R)を使用して評価したところ、認知機能の改善が見られた等の報告がされています。
リアリティ・オリエンテーション(現実見当識訓練)は、1968年にアメリカのFolsomらの提唱から始まりました。今は、何月何日なのかとか、季節はいつなのかといった時間や今いる場所等が判らないなどの見当識障害を解消するための訓練で、現実認識を深めることを目的とします。認知症高齢者に「自分は誰であるのか」「自分は現在どこにいるのか」「今はいったい何時か」といった事柄に対する現実認識の機会を提供します。例えば、着替えや排泄の介助など、日々のケアの中で、スタッフが意図的に、認知症高齢者の注意や関心を、天気、曜日、時間に向けたり、室内に飾られた季節の花、朝食のみそ汁のにおい、旬の魚を焼く香り、登校中の子どもたちの声などを用いて、見当識を補う手がかりを与えたりします。
3.地方自治体による予防事業の取り組み
MCIの段階に入る前に認知症予防を始めることが推奨されますが、MCIの時期からでも認知症を発症あるいは遅延・抑制することが期待されます。科学的根拠に基づいて開発された認知症予防プログラムは、個人や事業所単位だけでなく、自治体レベルでの取り組みでも積極的に行われています。
国立長寿医療研究センターがデュアルタスクを具体的なプログラムとして開発したのがコグニサイズです。「軽度認知障がいと判定された高齢者のうち、コグニサイズを実践したグループは記憶力テストの成績が良く、脳の海馬(学習記憶を司る部位)の機能萎縮の進行が抑えられた」という結果が得られたと報告しています。神奈川県では平成27年度よりコグニサイズを市町村が実施する介護予防教室などへ県事業として追加しています。全県展開を進めていくと同時に、民間企業にも働きかけ、イベント場でも紹介するなど県民への普及を図っています。コグニサイズは、有酸素運動に加えて二重課題(デュアルタスク)を用いて認知機能を賦活化させる運動プログラムで、認知機能の維持・向上がもたらされる可能性が示唆されています。
また、静岡県では、独自の健康長寿プログラム「ふじ33プログラム」を2012年よりスタートしています。「ふ」は普段の生活で、「じ」は実行可能な、「3」は「運動」「食生活」「社会参加」の3分野で活動、「3」は3人一組でまずは3か月間の実践を行うものです。実践教室の効果として、参加者の1日の平均歩数が1,104 歩増加したことなどがあげられています。生活習慣の改善はなかなか続かないといわれていますが、この教室の場合、9割を超える人がプログラム終了まで継続できています。これには、独自の「健康マイレージ」という県民の健康づくりを促進する新しい仕組みが寄与しています。日々の運動、食事などの生活改善や、健康診断の受診、健康講座やスポーツ教室、ボランティア等の社会参加などを行った住民が特典を受けられる制度となっています。カード協力店において提示することで、各店が用意したサービスを1年間利用できる。飲食関連では「握り1皿プレゼント」、健診関係では「人間ドック受診者に記念品進呈」、運動施設関係では「100 円利用券進呈」などがあります。
東京都荒川区では、荒川区と首都大学東京が共同開発したオリジナルの転倒予防体操である『荒川ころばん体操』を推進しています。体操中の歌や手足の組み合わせ運動で脳が活性化し、さらには足腰の筋力と柔軟性、バランス能力が向上し、転倒や寝たきりを予防の効果を期待されています。20以上の会場があり、無料で参加することができます。お金がかからない、器具を使用しない、音楽に合わせて楽しく続けられることが特徴です。週2回、3ヶ月以上で継続効果が期待できます。体操時間は18分、深呼吸しながら運動し、グループでも家庭でもできます。
4.まとめ
上記にご紹介したように認知症予防の取り組みは他の多くの自治体が実践しています。これは、認知症高齢者が増えることによって医療費や介護費用の負担が市町村の財政を圧迫していることにあります。認知症を予防し健康長寿に生きることは、一個人の問題だけではなく社会的要請だといえます。非薬物療法研究は非薬物療法が実施可能な介護保険制度による安定した経営がなされている施設で整備された空間が存在したことによって可能になってきました。さらに、その研究を発表できる日本認知症ケア学会などの場があったことより実践が確立されたといえます。加えて、非薬物療法を展開するケア職の研究組織化や大学研究者の実践との連携化によって各種の非薬物療法が増大してきたと考えられます。しかし、方法論や結果の記載にばらつきがあり、客観性を欠くものも多くあります。療法の技法のエビデンスを高めることは重要ですが、薬物療法のように効果が明確にあらわれるというものではありません。エビデンスを高めるためには、認知症高齢者の「その人らしさ」をひきだすためにどのようなかかわりかたをしたのか明示され、その結果を具体的に記述していくことが重要です。生活の場におけるその蓄積が、非薬物療法研究にとって重要であることは今後も変わりないででしょう。
※認知症予防についてのエビデンスは検証段階のものが多く、本記事で記載されている内容は専門家によって見解が異なることがあります。
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